7月に入り今年も半分が過ぎました。1月1日の能登地震以来、富山の安全神話も考え直す時が来ています。災害はどこでも起こりうるものであり、日頃からその対応について考え、行動することの大切さを痛感しています。
この地震で被害を受けた我が家の「蔵」も、先日からやっと修理が始まりました。土壁が一面崩れ落ち、ひび割れも至る所に発生し、北陸特有の湿気から建物を守る「置き屋根」も傾くなど、重傷でした。登ってみるとシロアリの被害も見られました。建てられてから70年以上経つ蔵ですが、時間をかけて直すつもりです。
さて、今日は富山県水墨美術館での企画展「没後100年・富岡鉄斎」の開会式に行ってきました。実は私、昨年から富山県文化振興財団の理事を拝命しています。富山県高岡文化ホールの「音楽友の会」の役員である関係から選ばれたわけですが、昨年、ある企画展に出向いたときにその理事長から「寺﨑さん、わからんでもいいから、いいもの見とかれ。」と一言いわれました。それからは県内のミュージアムで開催される企画展などに、できる限り足を運ぶようにしています。
今回の「富岡鉄斎」、何となく名前は聞いたことがあり、絵描きだと思っていました。学芸員さんの解説を聞いたところ、儒教学者であり文化人であり、詩と書と絵師の顔を持つ方であったことを初めて知りました。幕末から大正時代を生きた「文人画家」といわれる巨匠です。北海道のアイヌの生活習慣を描いた書画や、日本各地を旅して風光明媚な場所をスケッチ(?)したような作品もありました。
展示品には「落款印」も大量に展示してありました。その書画にふさわしい印を選んで押してあるそうですが、私は「錬」という漢字が多いように感じました。なぜだろうと思って調べたところ、「錬」とは金属や心身・技芸をねりきたえることで、「錬金」「錬成」などと使われていました。「勉学への思いは常に持て」と私なりに理解しました。
富岡鉄斎は大正13年(1924)12月31日に89歳で亡くなっていますが、最後の書画も展示してありました。亡くなる一週間前のもので、書には「老いて益々学ぶ」と書いてありました。あっぱれとしか言えません。