先日、鹿児島で開催された同期会に参加し、帰りにも熊本で同期生と会う3泊4日の旅をしてきました。交通手段は飛行機か新幹線かで迷いましたが、帰りは熊本に寄ること、飛行機なら羽田-富山便が夕方しかないことを考え、行きは鹿児島まで約8時間、帰りは熊本から約7時間の新幹線の旅を選択しました。

九州トナカイ(少年工科学校17期生の会)は毎年開催されていますが、今回は全国からも同期が集まって約50名の同期会となりました。九州以外では北海道・茨城・埼玉・京都・兵庫そして富山の同期が加わり、懇親会とゴルフが行われました。

卒業から50年、美少年で筋骨隆々だった同期が、今や腹が出て髪も薄くなり、見る影もないオジサンに変身、しかし、心は50年前に戻り、顔のしわから50年前の面影を探し出し、笑顔で再会できた喜びを分かち合い、家族や欠席の同期の消息等々、話が尽きない楽しい時間を過ごしました。当時の号令での生活が、今では全員が自衛隊を卒業し、第二の就職か悠々自適の生活、それぞれの道を歩いています。しかし、根底にはあの生活で得た「力」と「絆」を忘れてはいません。それが再会によって、また復活。とても貴重な時間でした。

帰りには鹿児島に来られなかった熊本の同期との食事会。4日間、観光は一つもない旅でしたが、私にとっては有意義な旅となりました。

帰りの新幹線で広島から一人の外国人青年が私の横に座りました。目が合うと微笑み返してくれたのですが、その目力や体格から、もしかして「軍」関係では?と思い、勇気を出して話しかけてみました。知っている限りの単語を使い、どこから?どこへ?仕事は?から会話を始め、私が自分の職業や出身地などを話し、陸上自衛隊(Ground Self‐Defense Force)にいたことも言いました。途中からは恥も外聞もなくスマホの翻訳機能を使い、声で日本語から英語に変換する機能で会話を広げました。何とカナダ軍の偵察隊にいたことがわかりました。彼に私の直感が当たったことを言うと笑顔で喜んでいました。現在は電気技術者として衛星の組み立てをしており、今回は3週間の日本旅行中とのことでした。今度は北海道に行きたいとも言っていました。私は「日本では旅行で三週間も休んだら会社の机が無くなる」と言って会話を楽しみました。広島から新大阪までの時間がとても短く感じられる充実したひと時でした。最後に握手をして「Have a nice day!」と言って別れました。彼は「ケーレイ」をしてくれました。それが自然でカッコよく、人柄も表していました。もっと英語を学んでおけばよかったなーと思った旅でもありました。

期末と期首

9月末で当社の第81期が終わりました。今期も社員には期末賞与を渡すことができて、嬉しく思っています。

建設業は一般的に「受注産業」「個別生産」「移動産業」などの特徴がありますが、建設業を一言で表すなら「水商売」と私は表現します。お客様から受注できるかできないか、どちらかしかないのが建設業の特徴だと考えます。先の見通しが立ちにくく売上や収入が不安定な水物の商売、今期が終われば、はや来期の心配です。

今期は創業101年目、それなりに緊張の期でした。結果として、創業100年の前期から見ると若干の減収・減益にはなるものの、まずまずの決算になるのではないかと思っています。そして、いろいろなことがあった期でした。人生の喜怒哀楽を感じた期でもありました。それを社員とともに知恵を出しながら乗り越えてきました。

9月27日、社員旅行に行ってきました。宇奈月温泉に一泊し、翌日は長野の善光寺にお参りに行きました。懇親会では早々から笑顔が飛び交い、二次会も大変盛り上がりました。中には三次会と称し、夜中の2時過ぎまで隣の部屋で呑んでいたという社員もいました。本人の言い訳は「捕まって帰してもらえなかった」、一緒に呑んでいた隣の部屋の人が言うには「居座って帰ってくれなかった」どちらでもいいのですが(笑)、今期が無事終わったことに社員のみんなが喜んだ、うれしいひと時でした。

10月から始まった第82期は、新たな仲間5名が加わってスタートしました。公共工事では国土強靭化で予算が強化されるものと思います。民間工事は更なる競争激化が予想されます。人件費をはじめ建設資材の値上げは続くと思われます。建築部門と土木部門、高岡本社と富山本店、この間のコミュニケーションをしっかり取ってgoodな会社づくりに取り組んでいきます。

いつも社員に言っていることですが、私は「会社が利益を出し、社員に還元でき、無事故で過ごし、社員とその家族が元気に過ごせる」のが良い期だと考えています。第82期も良い期に、みんなでつくりあげたいと考えています。

小松基地航空祭

9月23日、小松の航空祭に行ってきました。

自衛隊富山地方協力本部のバスで基地内に駐車できるというお話をいただき、ありがたく参加した次第です。朝6時30分頃に高岡を出発し、8時過ぎに小松基地に到着しました。小雨の降る中、小松インターを降りて基地へと向かう道路は同じ目的の車で渋滞、傘を差して歩く人たちやカッパを着て自転車に乗る人たちも同じ会場を目指していました。基地直前になると何十台も連なるシャトルバスが大勢の人を送迎している光景が見られました。何と人気の高いイベントなんだろうかと改めて感じつつ、何となく申し訳ない気持ちでバスに乗ったまま基地内に入れていただきました。

前日から能登半島北部を豪雨が襲い、私は航空祭の開催がどうなるのかと小松基地のホームページを何度も確認しました。村上基地司令は「直前まで悩み苦しんだが、能登の方に寄り添い、共に進むことをテーマに開催させてもらった」と話されました。いろいろなご意見があるかと思いますが、開催の決断をされたことは全国各地から来られる見学者にとっても良かったと思います。

朝からの小雨は降ったり止んだり、時折り黒い雲が垂れ込める中、メインの「ブルーインパルス」の展示飛行が始まりました。曲技飛行はなく編隊飛行のみでしたが、迫力のあるフライトを間近で見ることができました。そのほか地上展示の数々と力強い和太鼓などのステージイベントにも魅了されました。

滑走路で見学している中、一つの発見をしました。駐機場の一番端で陸自のヘリが三機着陸し、給油と整備をして、また飛んでいきました。最初は単純に航空祭の一環なのかと思っていましたが、その整備員をよく見ると、航空祭とは関係なく淡々と仕事をこなしておられる様子でした。

「そうか!陸自は能登の災害支援を行っているんだ!」と気付き、ありがたく、胸が熱くなりました。航空祭というイベントの開催と災害支援、相反する二つの課題に誠実に対応された隊員の方々に、敬意と感謝を表します。

元日の地震で大変な苦労をしておられる能登の方々に追い打ちをかけるように今回豪雨が襲いました。本当にお気の毒でなりません。そしてそのような中で開催された航空祭の隣で淡々と仕事をこなす自衛官の方々の姿、北陸の人間として本当にありがたく感じました。自衛隊の配慮の心、底力を感じた一日でした。

大曲の花火

一泊で秋田へ行ってきました。目的はズバリ「大曲の花火」。今年は8月31日(土)に開催されました。「日本一といわれる花火を観よう!」と私が会長を務める銀行の親睦会の旅行として計画し、実は昨年から段取りを始めていたのです。入場チケットの取り方、交通手段、宿泊先など、旅行代理店との打合せを重ねて、内容を組み立ててきました。地縁・血縁にも頼り、多少の不安はあったものの、最終的にはベターと思える旅程を作り上げました。ところがその週に日本に上陸した「台風10号」の想定外の動きでヒヤヒヤ。出発前日の午前中ギリギリに、銀行の支店長と旅行代理店と話し合って最終的に「Go!」と決断し参加者に連絡しました。万が一、翌日の秋田新幹線が動かなかった場合「帰りはバス」という選択肢も含めて実行に至りました。参加者27名、銀行からも2名来ていただき、結論からは「満足できる旅行」になったと思っています。

31日の当日、河川敷の会場は約10万人の観客であふれていました。川の対岸、幅約900メートルにわたって次々と花火が打ち上げられます。正式名称は「第96回全国花火競技大会」。選抜された28社の花火業者が技術を競い、合計約1万8千発の花火を打ち上げるもので、その華麗さ・壮大さ・迫力は圧巻でした。私たちは有難いことに、観客席を埋めた10万人の真ん中の最前列、首が痛くなるほどの角度で観覧。光と音が織りなす美しさ、そして儚くもある「総合芸術」を約3時間にわたり堪能させていただきました。雨上がり、視野に収まりきらないほどの「大空の大輪」に胸がいっぱいになり、思わず涙がこぼれました。それまでの苦労が報われ「来てよかった」と改めて感じた瞬間でした。

「打ち止め!」のアナウンス後は、観客と花火師が感謝を伝え合う「エール交換」。10万人の観客が一斉にペンライトを振りはじめ花火師に感謝の意を表し、対岸の花火師からもトーチが振られる感動的な光景で、会場全体が大きな一体感に包まれました。また退場時は10万人が出口へと動くわけですが、観客全員が整然と移動し、観客席には全くといっていいほどゴミが無かったのが印象的でした。日本人のマナーの素晴らしさを感じました。

宿泊先である秋田駅前のホテルには、午前12時半ごろ到着しました。ホッとした途端に腹が減り、夜中の1時頃に近くのラーメン屋へ行って、ラーメンと半チャーハンをペロリ!花火会場ではアルコールを吞みながら、つまみと弁当を食べていたのですが、「今宵だけは」と自分に言い聞かせて・・・。満腹になった後は、部屋に帰って、胃薬を飲み、風呂に入り、興奮冷めやらぬ中、ベッドに入ったのでした。

結婚式

8月17日、東京で娘の結婚式がありました。

前日16日は「非常に強い」台風7号による交通機関への影響が出ていたので、早めの北陸新幹線で東京へ向かい、当日の式場と宅急便到着の確認をしてからホテルに入りました。予報どおり昼過ぎから次第に雨風が強くなり、近隣の飲食店もあちこちで臨時休業、人通りも普段より少なかったように思います。外は荒れた天気でしたが、不思議と私の気持ちは穏やかでした。

娘が「今年のお盆に東京で結婚式を挙げたい」と言ってきた時、私は思わず「涼しくなってからにしたら?」と言いましたが、彼も娘も9月生まれで「ひとつ歳を取る前に式を挙げたい」との思いを聞き、賛成しました。

口の悪い同期からは、祝福や励ましの言葉をかけられました。「台風一過」「雨降って地固まる」「泣くぞ~」「ハンカチは必需品!」「バスタオル持っていけ!!」そして「息子が一人増えるな(笑)」・・・どれも温かい言葉だと、ありがたく受け取りました。

当日17日は快晴、台風の後で気温も上昇しましたが朝から青空が広がり、二人の門出としては最高の日だと感じました。幼かった娘がここまで成長し嫁ぐ日、親として「二人で幸せな家庭を築いてもらいたい」と願わずにはいられません。順風満帆な日々が続けばいいのですが、突然嵐が来たり危険な航路に直面して、判断を迷う時も出てきます。ともに乗り切ってもらいたいと心から思います。

同期にはメールで「泣くもんか!」と強気に伝えたものの、予行演習でバージンロードを一緒に歩いただけでウルウル。どうなることかと思いましたが、結婚式本番では何とか事なきを得て、牧師さんから心に沁みる「隣人を愛せよ」の説話を聞かせていただきました。

そして披露宴、友人の温かい祝辞から始まり、以前に「どんな曲が好き?」と聞かれた曲が演奏されて心が和み、メモリアルムービーでは幼かった二人の生い立ちからの写真、コメントとそれに合った曲、目頭が熱くなりました。そしてフィナーレは新婦が読む、親・家族への「お礼の言葉」。あの娘がこんなに心のこもった文章を書けるのかと驚きながら、一つひとつの言葉をかみしめました。やはりここでもウルウル。何度も目頭が熱くなりましたが、何とか耐えました。親が言うのもなんですが、本当にいい結婚式でした。

 結婚式と披露宴が終わり、私の妻と二人の息子は「友達と会うから」と、東京のホテルでもう一泊することに。そして私は当日夕方の北陸新幹線で帰宅の途に。なぜかしら「東京にはいたくない、帰りたい」という思いに駆られたのです。ポツンと一人、新幹線の車窓から夕暮れの都心や信州の山々をぼんやり眺めながら帰ったのでした。ウルウル。

立川志の輔師匠

今年の夏は、例年にも増して猛暑が続いています。パリオリンピックでの日本選手の活躍が連日連夜報道され、高校野球の熱戦も甲子園で始まりました。また近年は「線状降水帯」という言葉が頻繁に使われるようになり、日本も亜熱帯化しつつあります。皆さんもご健康に留意され、この暑くて熱い夏を乗り切っていただきたいと思います。

昨年夏に寺崎グループ100周年記念行事として、立川志の輔師匠の落語公演会を開催しました。おかげさまで大盛況でした。それから私は志の輔師匠の落語をすすんで聴くようにしています。また「志の輔ラジオ 落語DEデート(KNBラジオ毎週土曜9時~)」という番組で寺崎工業のCMを出していますので、皆さんも是非お聴きください。

先日も県民会館で行われた志の輔師匠の公演会に行ってきました。師匠は自ら多くの「新作落語」を創作しているほか、「古典落語」にも演劇的要素を取り入れて現代に通じるようにアレンジするなど、誰もがその才能を認める偉大な落語家です。今回も江戸時代、独創的な歌舞伎で名を成した実在の人物「中村仲蔵」の落語を聴かせていただきました。師匠は「一人三役」の巧みな語り口で、私たちの頭の中に物語のイメージを膨らませていきます。人生の喜怒哀楽、そして生きざま、あたかもそこに人物がいるかのように引き込まれていきます。飽きることのない時間でした。

公演終了後、「勝駒」を持って楽屋に挨拶に行ってきました。師匠も寺崎工業が番組のラジオCMを出していること知っておられました。いろいろなご縁を大切にしていきたいと考えています。

さて、今年もお盆を迎えます。社員には夏季休暇に入る前に「『出入りの大工』の姿勢を忘れれずに、各現場の整理整頓・休み明けの仕事の段取り・お客様への挨拶を確実に行ってください」と伝えてあります。

誠に勝手ながら、弊社の夏季休暇は8月15日(木)~ 8月18日(日)とさせていただきます。ご不便をおかけしますが、何卒ご理解のほどお願い申し上げます。

地鎮祭

「地鎮祭」はその土地の氏神様に工事開始の報告と安全を祈願する儀式であり、工事の第一歩を踏み出す大切な瞬間です。施主様にとっては、苦労して計画をまとめて、いよいよ工事に着手する大切なスタートライン。当社は地鎮祭の設営や進行、施主様への配慮など、完璧はありませんが、都度見直しを行って最高の「地鎮祭」を追求しています。

私を含め当社の社員は、地鎮祭で「寺崎工業の印半纏(しるしばんてん)」を着用します。印半纏で「出入りの大工」を表し、その建物がある限りメンテナンスをさせていただきます。「出入りの大工」はお客様の表玄関から入らずに勝手口から入ります。お客様とは日頃のお付き合いも大切にし、おめでたいことや悲しいことを共に感じられる関係でありたいという意識を全社員で共有し、日々の仕事に取り組んでいます。

その「地鎮祭」が今日、行われました。炎天下でしたが、幸いにも時折りやさしい風が吹いていました。手前味噌ですが、今日の地鎮祭は神主様・施主様としっかりと打合せができていると感じました。

「地鎮祭の前まで晴れていて、式の間だけ雨が降って、終わった後また晴れてくるのが地鎮祭として一番いい」と父から聞いたことがあります。その完成した建物からは火が出ないと言っていました。私もそのような天気の地鎮祭を何度か経験したことがあります。もちろん、天気で全てが決まることはありませんし、地鎮祭は吉日を選んで行われます。

話は戻って今日、玉串奉奠の儀式で、施主様の社長が施工者の代表である私に頭を下げられました。恐縮した私は、座ったままですが姿勢を正してお辞儀しました。続く施主様の社員10名余りの方々も全員、同じように私に頭を下げられました。私にとっては「恐縮至極」の出来事でした。

式が終わった後の車の中で、「社員は社長の行動の真似をする」ということを考えました。良いこともそうですが、悪いことも真似をすると考えると、これは怖いことだと思いました。改めて「社長としての行動」について見直そうと思った次第です。

映画

先週、久しぶりに一人で映画館に行ってきました。

「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。今から55年前、アメリカが人類初の月面着陸に威信をかけて望んだアポロ計画の舞台裏をNASAの協力も得て描き、計画が失敗した時のためのフェイク映像まで作ってしまう物語です。コメディ要素もあり、恋愛物語でもあり、上映時間132分、睡魔に襲われることはありませんでした。面白かったです。しかし、劇場の観客は3人。夏休みに入った平日の17時過ぎでしたが、これで採算が取れるのかと少し心配になりました。

小学生の頃から映画が好きでした。加山雄三の「若大将シリーズ」や「モスラ対ゴジラ」などの怪獣映画を観て育ちました。一日で映画館を二軒廻ったこともあります。当時は娯楽の殿堂であり、休日の映画館は常に大入りでした。

中でも一番印象に残っているのは「ひまわり」。中学三年の時、私が自衛隊の少年工科学校に入学する前に観ました。ソフィア・ローレン主演のイタリア映画で、戦争によって引き裂かれた夫婦の物語です。第二次世界大戦中のウクライナを舞台に、冬の凍る大地と夏の明るいひまわり畑を人生に置き換えて映像化してあります。そして物悲しいヘンリー・マンシーニのテーマ曲。今でもこの曲を聴くたびに涙が出そうになります。私にとって生涯忘れることのない名作です。この映画を観て、自衛隊に入るのをためらったことを覚えています。

いやぁ、映画って本当にいいもんですね~。これからもジャンルにとらわれず、いろいろな映画を観ていきたいと思っています。

富岡鉄斎

7月に入り今年も半分が過ぎました。1月1日の能登地震以来、富山の安全神話も考え直す時が来ています。災害はどこでも起こりうるものであり、日頃からその対応について考え、行動することの大切さを痛感しています。

この地震で被害を受けた我が家の「蔵」も、先日からやっと修理が始まりました。土壁が一面崩れ落ち、ひび割れも至る所に発生し、北陸特有の湿気から建物を守る「置き屋根」も傾くなど、重傷でした。登ってみるとシロアリの被害も見られました。建てられてから70年以上経つ蔵ですが、時間をかけて直すつもりです。

さて、今日は富山県水墨美術館での企画展「没後100年・富岡鉄斎」の開会式に行ってきました。実は私、昨年から富山県文化振興財団の理事を拝命しています。富山県高岡文化ホールの「音楽友の会」の役員である関係から選ばれたわけですが、昨年、ある企画展に出向いたときにその理事長から「寺﨑さん、わからんでもいいから、いいもの見とかれ。」と一言いわれました。それからは県内のミュージアムで開催される企画展などに、できる限り足を運ぶようにしています。

今回の「富岡鉄斎」、何となく名前は聞いたことがあり、絵描きだと思っていました。学芸員さんの解説を聞いたところ、儒教学者であり文化人であり、詩と書と絵師の顔を持つ方であったことを初めて知りました。幕末から大正時代を生きた「文人画家」といわれる巨匠です。北海道のアイヌの生活習慣を描いた書画や、日本各地を旅して風光明媚な場所をスケッチ(?)したような作品もありました。

展示品には「落款印」も大量に展示してありました。その書画にふさわしい印を選んで押してあるそうですが、私は「錬」という漢字が多いように感じました。なぜだろうと思って調べたところ、「錬」とは金属や心身・技芸をねりきたえることで、「錬金」「錬成」などと使われていました。「勉学への思いは常に持て」と私なりに理解しました。

富岡鉄斎は大正13年(1924)12月31日に89歳で亡くなっていますが、最後の書画も展示してありました。亡くなる一週間前のもので、書には「老いて益々学ぶ」と書いてありました。あっぱれとしか言えません。

田んぼ

昨日、先祖伝来の「田んぼ」を2枚売りました。

散々迷ったのですが、決断した理由は「多くの方々の役に立つ」ことでした。それならばと腹を決めました。

父は祖父から受け継いだ田んぼを20年の納税猶予をして耕作を続けました。それを私が受け継ぎ「この地、中川で一番きれいな田んぼにしよう」と意気込んで管理をしてきました。機械が必要な荒起こし・代掻き・田植え・溝切り・稲刈りなどは農協のアグリサポートに頼んで、私は水の管理・雑草取り・肥料散布などの作業を中心に行っていました。機械での田植え後に苗が抜けているところを手で植えたり、街で呑んだ後の深夜に懐中電灯を持って田んぼの水を見に行ったり、真夏の炎天下に長袖・長靴・帽子にサングラス姿でぬかるんだ田んぼに入って雑草取りをしたり・・・。決して楽な作業ではありませんでしたが、田植えから稲刈りまで、苗が風にそよぎ、緑の絨毯になってすくすくと育ち、やがて黄金色の絨毯へと変わり、頭(こうべ)を垂れる稲穂の姿になるまで楽しみました。手をかけたら、その分返ってくるのが田んぼの魅力です。

耕作する田んぼは無くなりましたが、この中川には農家の集まりの生産組合があります。いざらい・草刈り・用水の草上げなどを行っていますが、これには今まで通り参加するつもりです。近年は高齢化と担い手不足に悩まされていますが、地域農家の一員として、汗をかいて農業を守って行きたいと考えています。

余談ですが、毎年新米が取れるとすぐに分家や親戚に配ります。分家は美味しい!と秋の味覚を楽しんでいますが、本家は古米が無くなるまで食べられません。本家の我が家は年末にやっと新米の味を噛みしめます。